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感動する音楽って

  • 執筆者の写真: 郁代 麓
    郁代 麓
  • 2023年10月30日
  • 読了時間: 6分

更新日:2024年3月19日


人は何をもって、音楽を良い、良くないと感じるのだろうか。

感動する音楽って、どんなものなんだろう。 メロディ 歌詞 技術の正確さ 奏者 見た目 経歴、演出、要素は複合的で何か一つ飛び抜けてるということではなく、演奏家と聴く側の何かが反応しあい虜になっていく。 音楽経験値の高い方は、耳も知識も沢山の情報や経験というフィルターを通して音楽を聴く。単純に聴くことを楽しむ側の多くは漠然と音楽を耳にしていることの方が多い。 そんな中で自分の中の何かと結びついた時、共感や癒し、高揚感が生まれる。 音楽をする人々。世界レベルの演奏者から、学校の部活動、趣味、仕事、音楽の幅はどこまでも広い。 趣味で楽しむ人、始めたばかりの音楽家の卵から、卓越した人たち。 色々な位置に、様々な人がいるから、音楽はカラフル。 モーツァルトのような人が音楽のデフォルトであったなら、誰も音楽なんてやる気が起きないかもしれない。

だが、素人の演奏でも、とてつもなく感動してしまった経験はないだろうか。 何が感動を生むのだろうか。そんな事を考えてみようと思います。




感動する音楽とは何だろうか?


何が人を感動させるのか?

テクニックか? 正直、ある程度の技術力を超えたら、その凄さはもう多くの人には理解出来ない。 ある程度の技術というのは、そんなに高いものでもないのだと感じる。

高い専門的な技術は、それを習得するのにどんなに時間を費やしたか、どんなに難しいものか、それは経験した人にしか分からない。 分かる人にしか分からないというのは、自己満足の世界。それを勉強した僅かな人達の世界であって、世界の共通認識でもない。 どんなに難しいことをやって見せても、演奏者側の練習量や努力などは伝わる余地もなく、あ〜すごいな〜の一言ほどでまとめるしかない。聴いている側がその道の人でない限り、表現のしようがないものだ。

表現力は? 表現力は感性と技術力が結びついて生まれる「しずく」のようなものだと感じる。悲しい気持ちで弾いても、悲しい音にはならない。どういう「音」が悲しさとなってこぼれ落ちるのか。 これは単純な技術力だけではなく、感性や想像力や生きてきた経験値も含まれるだろう。 人生挫折したことのない人はいないと思っている。ただ、挫折感をたっぷり味わうか否か。その時に起こる心のさざなみをどれだけ感じるか。そんな感性の大きい人とサラッとした人とで、書き込まれる経験値が変わるのは確かだ。 その経験のフィルターを通して出てくるものは、当然味も変わる。 じゃあやっぱり技術力!なのかということになるではないか。


何が伝わると、聴いている側の心は動くのか

どんなにすごいテクニックを完璧に演奏出来ても、その演奏に感動をするか?というとそうでもなかったりする。 人の心が動くのは何なのか。 それは「物語」であり、「自分の世界との共通点」だ。 曲の物語、人の物語、聴く側はそこに自分との共通点を探して、自分ごとと捉え始めると心が動き始める。 強弱記号を記号として演奏してるのはただの技術であって、表現力ではない。 小さな音の背景に見える物語。だんだん大きくなる音の意味を共有する。 そこに生まれる物語に、心が動くのである。

私は美術の知識は乏しい。初めてピカソの絵を見て感動はしなかった。素人が漠然と見て、これはすごい!天才だ〜!と感動する人はいるのだろうか? 初めて出会ったものを理解するのにはタイムラグが発生する。 説明書きを読んで、こんな風にこの絵は生まれたのかと理解を深める。 ピカソのデッサン作品をみて、過去と現在を結びつける。 自分の家の絵とは違う! 学校の教科書に載っていた絵の本物だ!

人は常に自分の窓から、世界を見ている。 見たいように見て、聞きたいように聞き、感じたいように感じる。 その基準は、自分の世界との共通点である。

音楽の中には、一つの物差しでは測りきれない要素がたくさん詰まっている。 どうしても技術力に集約されてしまいがちであり、演奏者もそこに縛りつけられる。 答えがあってわかりやすいというのが一番の要素だから。 ドはドと思い込んでいる。 ドでもレでもない音がただよった時に、心が動かされていることに気づくと、世界がもっと鮮やかに見えてくると思うのに。


感動の源泉

忘れていた思い出が、曲や音で掘り起こされて意識に戻ってきたときに、そのときの感情が呼び起こされ自分の中に収まらなくなった時、涙になる。 その涙が「癒し」だ。 人が癒される〜というのは、そんな現象が大なり小なり起きている時。 一言でまとめたくないけど、まとめるとしたら「共感」という言葉になるだろうか。 伝える側に物語があると、共感がぽこぽこ生まれ始めるのだ。 感動や癒しは、プロの演奏だけが起こすものではない。 子供にだって、初心者にだって作れるものだ。

感動する音楽は、伝える側の「何」から湧き出ているのか? 愛、真心、宇宙、平和、美、生命・・突き詰めるとそう言うところからだ。その人の持っている信念・価値観。生きていく上で、大切で自分の軸にあるもの。 その源泉をわかっている人から出る音は、理由も意味づけもいらない。響いてくるものなのだ。

音楽への寛容さ


音楽というものに寛容である方が感動は起こりやすい。人はジャッジをするのがかなり好きな生き物。 こうであるべき、こうであって欲しい、こうでなければならない ちょいちょい本気っぽく音楽にかじりついて、何気に知識もついて、少し周りより知ってることが増える。 そうすると、音楽に対してとても厳しくなる。 ここを間違えた。音が外れた。基本ができてない。解釈が間違っている。 こんなジャッジが才能の芽をつみ、ドリームキラーともなる。 人のジャッジをすることは、自分へのジャッジだと気づいているだろうか。 目に着くところ、耳に届くところ、全て自分自身の投影であることに気づいているだろうか。 他人の音楽に寛容さを失っていくと、自分の音楽も否定し続けることになっていく。 傲慢さの押し付けでない限り、一つの感動もない音楽などない。 心が1ミリも動かないとしたら、相手の音楽をジャッジする前に自分の傲慢さを問うて見るチャンスだと思う。

もちろん、演奏する側にも自分をわきまえることは必要だ。 それは、自分の中で自分がどこにいるか?ということであって、社会の中でどこにいるか?ということではない。

音は人柄をも投影する。楽器から音が出るのではなく、その人から音が響いてくる。 隠しようもなく漏れ出してくるもの。 優しさも、強情さも、弱さも、傲慢さも 色々な要素を全て、自分の一部と受け入れられた時、「音楽」というものに寛容さが付加されるような気もする。 音楽に限らず、寛容さを持つのは人生の鍛錬が必要であるように思う。 50年ほどの人生では、まだまだ未熟だ。

感動は、するものでもさせるものでもなく、してしまうもの。 感動の生まれるところは、技術や物ではなく「在り方」であり、そしてその源泉から紡がれる「物語」なのだど思う。 この記事を書きながら気づいたことがある。自分は、どんな在り方で音楽に携わっていくのかということ。 最後まで、読んでくださりありがとうございます。





 
 
 

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